2005年4月号 

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2005年3月号 

       松岡温彦、個展の案内。会場は東京・渋谷の穴蔵(アングラ)喫茶です。
       おいで下さるときは電話を頂ければと思います。

目次

 テレワークによるリゾートオフィスエコライフ講座(25)
       読む(15)       

 "失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章
サラリーマンの軽井沢(3)
最終回

 
美しい雪をかぶった浅間です。天気が良ければ新幹線で高崎の手前から見えてきます。
浅間山だけが真っ白ですぐにわかります。よく白い雲が煙と一緒になって流れていきます。
White Mt.Asama appeared in your left side when the Shinkansen is approaching
Takasaki station.

 


 

 

テレワークによるリゾートオフィスとエコライフ講座

 (25)

Resort Officeの効用
読む(15)

 戦争前の音楽愛好家ならいざ知らず、戦後生まれの人々で、レオ・シロタの名前を知っている人は本当に少ないだろう。場合によっては彼の娘のベアテ・ゴードンなら、最近もマスコミに取り上げられたりするので聞いたことがあるという人もいるだろう。日本の憲法に女性の権利を明記するように運動したりして、当時の占領軍のもとで、日本を良く知っているアメリカ人の女性として活躍した彼女である。このベアテ・ゴードンの父親こそ、戦前のヨーロッパ楽壇に天才ピアニストとして、颯爽と登場し、今では日本人が誰でも知っている毎年の正月、ウィーンフィル、ニューイヤー・コンサートが開かれる、世界屈指の音楽ホール、ウイーン学友協会ホールで何度も演奏し、喝采を博したレオ・シロタなのである。

 その後、数奇な運命をたどって、日本で暮らすことになり、軽井沢で終戦を迎えることになったのだ。そして、何をかくそうレオ・シロタ夫妻とその娘、ベアテの3人が日本で過ごした赤坂桧町10番地にあった家こそ、わが山室家の貸家だったのだ。1929年(昭和4年)から1946年(昭和21年)の17年間、日本に滞在し、日本の西洋音楽の育成につとめた。山田耕筰から始まって、先年亡くなった園田高弘に至る間で、日本の音楽家は何らかの形で彼の影響を受けているといっても過言ではない。同じ、軽井沢ゆかりの人物で例えればアントン・レイモンドが日本の多くの建築家に影響を残していったと同じことである。赤坂・桧町の家にはレッスンを受ける生徒がひっきりなしに来ていたという。彼の教育法は彼の先生だったブゾーニの影響もあって、演奏技術を超えたものだったようだ。このようなレッスンに耐える日本人のピアニストがいたということも、われわれにとっては驚きだが、その頃の日本はいまのような超平等社会ではなかったから、ピアノを習うことの出来る日本人は特殊な階級の人達であったり、そのような人達に見いだされた特別に才能のある人達だったとも言えそうである。

 彼も日本にいたときは、夏の軽井沢を楽しんだが、残念なことに、戦争のとき軽井沢に多くの不遇な外国人が半強制的に閉じこめられ、レオ・シロタはロシア生まれのユダヤ人だったから、食べることにも事欠く有様で、それもあって、最終的に日本に好意を持って死ぬことはなかったようだ。しかし、戦前の東京の家、赤坂・桧町10番の家にいたときの思い出は温かく心に残っていたようだ。この家で彼は夫人と良くパーティを開いて、日本人や日本にいる外国人、来日したヨーロッパの友達を招いたという。彼自身は無類のキャビア好きで、戦争が始まり、日本では手に入りにくくなるとロシアに直接注文していたそうだ。

 もし、私が覚えている戦災にあわずに残っていた古い大きな西洋館がレオ・シロタの住んでいたところであれば、高校時代にほんの少しの間、西側の一角にあった一部屋にいたことになる。しっかりした建物であったが、床が一方に傾いているような部屋で年代を感じさせるものだった。3年ほど前に来日していたベアテさんが留守電を入れてくれたことがあったが、そのまま、話しもすることなく、先日、それこそ、サントリーホールでのコンサートの前に立ち寄った、丸善で見付けたのが、この本だった。

 レオ・シロタについて、どうしても気になることは、ヨーロッパでのユダヤ人の迫害があったとしても、彼ほどの大演奏家が何故、日本に住んだかということである。ルービンシュタインやホロピッツも東欧、ユダヤ系ロシア人でアメリカに移住して、音楽史に残る演奏家として世界中の人々に記憶されている。しかし、レオ・シロタは彼らと同等、否、彼ら以上の演奏家だったにもかかわらず、最盛期を日本で暮らしたために埋もれた演奏家になってしまった。彼の名誉挽回というか、彼の価値を世界に認めさせることは日本の音楽界にとって必要なことではないのだろうか。実は日本の音楽界の世界における位置が結局、遙か彼方の極東の島国であることを如実に物語っているのではないか。結局、日本人の実力のある演奏家はアメリカやヨーロッパに住んで、ときどき日本に帰る、そして過去の栄光の残り火を日本で燃やす外国人演奏家がやってくる最後の地というのが日本音楽界の現実なのだ。

 

 

"失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
最終回
  第3章
サラリーマンの軽井沢(3)

  この貸別荘に神宮ロイヤルクラブのメンバーが合宿することになった。僕も自分の家はあるが皆と一緒に寝泊まりすることが楽しくて、テニスの道具と着替えをもって、ほとんど、ここにいた。内装の会社をやっている仲間が、幌付きのトラックを出してくれて、全員の布団を運んだ。メンバーのほとんどが車をもっていて、誰がいつ誰の車でいくか決めて、週末毎に集まった。大学院にいっていたり、大学の教職について助手などになっている者はウイークデイも適当に利用することができて、僕たちを羨ましがらせた。

 また、すでにカップルになって公認になっていた3組は、それなりに使っていたようで、一組はいつも四畳半の小部屋にしけこんでいた。今から考えると、かなり刺激的な場面もあったよう思えるが、テニスなどでいつも発散していたので大事には至らなかった。カップルになっていない女性軍はそれぞれ軽井沢の友達の別荘に泊まっていて、テニスの試合のときやバーベキューなどの夜の食事などに集まった。この貸別荘にも良くやってきて、しゃべったり、食べたり、散歩したりと愉快な時間を過ごした。東京と軽井沢の往復は誰かの車に4人か5人乗り合わせることにしていた。軽井沢に来るときには午後から夕方の出発で到着は夜から夜中になることが多く、よく、最後の仲間が到着するのを今や遅しと待ちかまえて、到着すると夜中過ぎまで飲みながらしゃべった。ある時、最後に到着した仲間が碓氷峠ののぼりでやくざの車を追い越したとかで、追っかけられて車を止めさせられ、殴られそうになったことがあった。その時、日頃は偉そうにしている一人が、後部座席に小さくなって隠れ、運転していた友達を見捨てたというので、後々まで語り草になった。その夜は皆、腹を抱えて笑い過ぎ、翌朝いつまでたっても誰も起きなかった。

 どういうわけか、朝になると仲間の一人がいつも食事の準備をした。何せ、東大の数学科を出て先生になろうとしている秀才で、穏やかな人柄だった。それにしても、不思議なことに誰一人として手伝おうとする者がいなかった。彼が黙々と台所で包丁の音をさせていると、それがまた気持ちのよい眠りを誘うのだった。何とか起きて彼の作ったサラダやなにかを食べながら、皆、大言壮語する、挙げ句の果てに受験の頃を思い出したのか、張り紙をすることになった。「世界に冠たらんとする者・・・・なんたらこうたら」、もう忘れてしまったが、とにかく偉くなろうという意気込みを墨で書いて、書き初めのように何枚か部屋に垂らしておいた。あれは誰が書いたのか。いずれにしても、その志は成就して、仲間の一人が日本学術会議の副会長か、副議長までになり、フランス政府から勲章をもらった。お陰で僕たちは夫婦でフランス大使公邸の勲章授与式に招かれた。

 その後、また別の「白樺御殿」と名付けた貸別荘に移ったが、僕たちも「世界に冠たらん」と仕事に精を出すようになり、家族も出来て、軽井沢で夏を一緒に遊ぼうという時代は3年ほどで、あっけなく終わった。

 こうして、若き日の軽井沢の夏の物語はなんとはなしに終わりを告げた。別荘地から観光地にかわって、軽井沢の特別な雰囲気は次第に失われ、外国人を見ることもまれになった。テニスコートも例外なく子育てが済んだおばさん達に占領されてしまった。軽井沢の古き良き時代の象徴として、毎日コートに来ていた、作家・吉川英治の息子の"ホウスケ"が3年ほど前に、未だ50代で亡くなるとともに、総てが思い出の扉の向こうに去っていってしまった。

  

[TOPICS1] 

雪解けになると、あらゆる道がこの有様で、車で走るのも大変だが、歩くことはほとんど出来ず、観光客だけが頑張ってショッピングなどしている。左の建物は旧軽井沢ロータリーの夏の派出所になるところだが、雨戸を閉めてひっそりとしている。バス停があるが、バスは1時間に1本もない。

 

 

 

 

[TOPICS2] 

軽井沢町唯一の本屋の「平安堂」。軽井沢にゆかりの作家の本の棚があったり、軽井沢に関する本を集めてあるので、それなりに便利だ。一般の本は少ないから、少し本を読む人には辛い。この日も、NHKの週間ブックレビューで紹介された本を探しに来て、パソコンで調べてくれたが在庫はなかった。

 

 

 

 

[TOPICS3] 

軽井沢駅から旧道に向かって通りの右側に5分のところにある「カフェ・コンヴェルサ」の新メニュー「角煮丼」700円ほどだが、なかなかヴォリュームがあってうまい。オーナーの中山さんは人当たりが良くて親切なので人気がある。年中やっているので、常連も多い。

 

 

 

(05/02/25)


2005年2月号

目次

 テレワークによるリゾートオフィスエコライフ講座(24)
       読む(14)       

 "失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章
サラリーマンの軽井沢(2)

 
今年も大雪です。60センチの厚さに積もっています。別荘内の小道はほとんど入れません。
国道、県道、町道に沿って建っている別荘以外、入ることが出来ません。
Every lanes in holiday houses area covered with heavy snow,60cm high.

 


 
 

テレワークによるリゾートオフィスとエコライフ講座

 (24)

Resort Officeの効用
読む(14)

 自分の親、兄弟、親戚を見渡して、家の中で家族が思想や哲学について激しく議論するなどという家は一軒もないし、生まれてから、これまで見たこともない。僕にとっては、もし、こんな家に生まれていたらどんなに面白かっただろうと羨ましく思う。宗教学者でモーツアルト好き出有名な中沢新一の家はそうだったらしい。集英社新書「僕の叔父さん、網野善彦」を読むと、その事が出ている。元々、少しは知的な人間として生まれたのかもしれないが、家族内の代哲学論争の明け暮れによって、中沢新一も網野善彦も世に出たことは確実である。そして、自分の親を恨むわけでもないが、僕を国立にやるか、私立にやるかで、あれだけ毎日のように喧嘩し、いがみ合う代わりに、両親が少しでも「教育論」でもやっていてくれれば、それを聞きかじって、今頃、著名な学者として世間を驚かすことが出来たに違いないと、密かに思う。

 「網野史学」の出現によって、日本の歴史は全く新しい地平線を得たわけだが、この、網野史学のインキュベーターの役割を果たしたのが、中沢新一の父親を中心とする中沢家の猛烈な論争であった。網野善彦は中沢新一の叔母さんのつれ合いとして、颯爽と登場する。僕は網野善彦の本は何冊か読んでいたが、その姿を写真などで見たことがなかったので、世の中の通説に逆らう、うさんくさい、禿頭の小柄な冴えない容貌の学者を想像していた。人間の想像はいい加減この上ないが、だいたい、書いたものから作者を想像するというのは得てしてこんなものだ。網野善彦は長身ハンサムな男として、少年、中沢新一の前に現れ、彼を虜にしてしまう。20才の年齢を超えて網野善彦は「新ちゃん」と遊び、語り、学び合っていく。

 僕の「網野史学」に出会う切っ掛けは、劇団「風」の演出家、プロデューサーの浅野佳哉が「徳川家康」の使っていた隠密、忍者の話しをしていて、彼らの「自由」を議論したことだった。彼らは社会的には、人間扱いされないとされていて、全く歴史の表には出てこない。そこで、われわれが学ぶ歴史は権力者を中心として、せいぜい、一揆などで、権力が脅かされる時に、農民だとか、信徒などとして記述されるに過ぎない。まさに、芝居の中の通行人である。しかし、実際の歴史はそんなものではなく、もっとさまさまな角度から見られて厚みのあるものだろう。つまり、未来の歴史かに僕なども参加している歴史として記述して貰えたら面白いだろうということである。

 実は、中世の武士支配の時代に、自由に全国を歩き回ることが出来る人間がいたり、自由に出来る時間や場所があったりする考え方の中に、人間の本質が潜んでいる。そして、現代社会にもっとも欠けている部分がある。その原因は2つあって、一つは18世紀啓蒙主義に発する人権の考え方であり、もう一つは科学への過度の依存である。「僕の叔父さん 網野善彦」を読まれた方ともっと議論したいところである。

 

 

 

"失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章
サラリーマンの軽井沢(2)

  軽井沢に貸別荘を借りて、みんなで夏を面白く過ごす計画のリーダーだった友達は、ここ数年、重い不治の病にかかって、会うことすら出来ない。彼は長身でテニスがうまく、口が悪かったが世話好きのところがあり、鼻っ柱が強い仲間をいつの間にか「神宮ロイヤルクラブ」ということでまとめて、テニスやボウリングの会をやったり、スキーに連れていったりした。最初、彼は軽井沢に土地を買って、真ん中にテニスコートを作り、周りにみんなが別荘を建てることにしようといって、春に軽井沢に来ては土地を見て歩いた。その頃、われわれの手の届くような土地は、どれも山林で、水道も来ているか来ていないところで、別荘を建てるイメージがなかなか湧いてこなかった。これならと彼と僕とあと2人ぐらいが決めようとしても、他の仲間が、うん、といわなかった。


軽井沢国際テニストーナメント80周年記念タグ(1997年)

 そのまま、ずるずると夏になった。7月末から2週間にわたって行われる「軽井沢国際テニストーナメント」は当時は日本中のテニスをやっている人が参加したいと思うオープン・トーナメントだった。僕も含めて、われわれの仲間はほとんどエントリーした。僕はシングルスもダブルスも1回戦で敗退し、すぐに「全日程終了」したが、毎晩、友達のいるところを渡り歩いて閉会式まで楽しく過ごした。しかし、どこへ行ってもバーベキューだった。バーベキューにもおいしいもの、おいしくないものがあることがわかったのも、あの時だった。その「神宮ロイヤルクラブ」のリーダーだった友達の親戚が別荘を持っていて、彼の従姉妹がやってくれたバーベキューはとびきりうまかった。2人姉妹だったが、どちらかが料理上手だったようだ。その一人とは未だ付き合いがあるが、あの夜の料理上手はどちらだったか、未だに訊けないでいる。何せ、闇の中で、火のある鉄板の周りしか良くみえなかった。

 バーベキューといえば、数年あとのことになるが、傑作な話しがある。ある日、次の週末はバーベキューをやろうということになって、いろいろ探したが大きな鉄板が見つからない。そこで、仲間の一人で金属材料の研究で教授になった者が実験などで関係している製鉄会社に適当な大きさの鉄板がないかと頼んだ。もちろん、バーベキュー用とは言わなかった。2,3日するとその会社の工場から、トラックに積んだ立派な鉄板が「先生、どんな研究に使われるのですか」と届けられた。われわれは、バーベキューに最も適した極上の鉄板を研究しながら、極上ではない並の肉を焼きながら、もつべきは教授の友だと言い合った。

 このトーナメントの間、みなはそれぞれ友人、知人を頼って分散して宿泊したが、窮屈だったり、気を遣ったりで、やはり、仲間で一緒に泊まれると良いということになった。例の別荘を作る話しもあるが、とにかく、てっとり早く合宿所がほしい。そこで貸別荘をみんなで借りようということになった。次の年、つまり昭和40年、1965年のことだったと思うが、この春に貸別荘を借りる契約のために軽井沢に来た。結局、地元の不動産屋の仲介で、早稲田のグランドがあった野沢原の近くに比較的安い家が見つかった。これは、別荘ではなく、民家で夏の間3ヶ月、自分の家を貸別荘として人に貸して、自分たちは同じ敷地にある昔使っていた別棟の古い家に引っこんで稼ぐという寸法だ。畳の部屋、6畳二間、4畳半一間に台所がついたものだった。われわれは、ここでふた夏過ごすことになる。

  

[TOPICS1] 立原道造・ヒアシンスハウス竣工報告

立原道造がスケッチを描いていた幻の「ヒヤシンスハウス」が浦和に出来上がったことは前にもこのトピックで紹介したが、その責任者の永峰さんが、われわれの吉武ゼミで、その顛末を報告してくれた。実際の設計、施工の段階では、スケッチには全てがしめされているわけではないから、立原が考えただろうということを推し量って作業を進めなければならないことが、何カ所かあり、いろいろ苦労をしたようだ。永峰さんは、これから「ヒヤシンスハウス」を運営していくのも大変で、いずれ、軽井沢に引き取って貰わなければならない、という日が来るかも知れませんよ、などと冗談を言っていった。

 

[TOPICS2] 小川山荘、旧、北一番マデン別荘、図面完成

近々、改築される予定の愛宕にある明治の建築、旧マデン別荘の現在の当主、小川英典さんご夫妻のご好意により、内部の観覧と専門家による実測図面作成が行われた。文化遺産として重要な建築物の研究、保存の第一人者である、文化女子大の内田青蔵教授の指導により、去年、11月から調査が行われ、先頃、図面が完成した。小川氏ご夫妻も大変喜ばれて、いずれ建てるときには参考にしたいと言ってくださいました。ご覧のように、シンプルで美しい外観はいかにも軽井沢にふさわしい。

 

 

[TOPICS3] 千ヶ滝・江戸原ペンションのニューフェイス

その名も「グレッチェ」、江戸原ペンションの音楽工房に居を構えているが、この雪と寒さで母屋の裏の入口につながれていることが多い。
血統も良いらしいが、とにかく若い盛りで、元気一杯というところ。

 

 

 

 

[TOPICS4] 松岡温彦自作、軽井沢カレンダー好評

「軽井沢カレンダー」の作成を各方面に呼びかけましたが、良い反応がなく、しかたなく自作、自演のカレンダーを作りました。一部は若い頃、軽井沢で活躍し、現在ペルーのリマに住んでいる方が喜んで持っていって下さいました。折角、軽井沢に一年中楽しんで欲しいという、軽井沢の人達が、カレンダーも作らないというのは全く信じられないことです。毎年、ウイーンから始まって日本の小樽のカレンダーなどを楽しんでいる私には良く理解出来ないことです。

いずれにしても、何人かの方々に1年間、軽井沢を楽しんで頂けることはありがたいことです。今後も作っていくつもりです。

 

 

 

 

 

(05/01/25)


2005年1月号

目次

 テレワークによるリゾートオフィスエコライフ講座(23)
       読む(13)       

 "失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章
サラリーマンの軽井沢(1)

 


浅間山を見に行くにも寒くなりました。冬はうちの窓から林越しに青い浅間山の輪郭が見えます。
2005年はどうなるでしょう。
あまり楽観的なことは言えなくなりましたが、とにかくこつこつとやることでしょうか。 


 
 

テレワークによるリゾートオフィスとエコライフ講座

 (23)

Resort Officeの効用
読む(13)

 冬に夏の本を紹介するのも変だが、新しい年の軽井沢を考えると、この本しかないような気がする。小沢征爾の娘の征良が、ほとんど生まれたときから夏を過ごした、ボストン郊外のタングルウッドの思い出を書いている本である。私が驚いたのは、ここに書かれているほとんどの文章の「タングルウッド」を「軽井沢」に置きかえると、全く私が子供頃すごした軽井沢の風景、情景、人々と変わらない。これは、すごく嬉しい。

 その物語の内容については、夏になったら、もう一度取り上げて紹介した方がいいだろう。なにせ、本当に夏にならないと、この懐かしくも美しい物語を軽井沢の昔とダブられせることは、如何に想像力があっても、冬に語ることは辛い。

 正直いって、「小沢征爾の娘」というレッテルだけで、本屋で手に取るのも恥ずかしい気がした。だから、最初、東京・青山ブックセンター(ABC) で見た時は、背表紙だけを横目に通り過ぎた。しかし、次にABC に行ったときは、回りに誰もいなかったので、手にとって中を少し覗いた。それでも、その日は買わなかった。しかし、だんだん、心の中で気になり始めた。あの森の中の別荘番号札の写真、ひかれるよな。ついに第3回目に買ってしまった。買って良かった。なにせ、多感な幼年時代を、光り輝く森のなかの夏を過ごした僕に取って彼女の書いていることは、「そうなんだ」「その通りだよ」、うああ、ハグしよう、という感じなのである。

 小沢征爾の娘であることを許してあげよう。実は、文章も相当なもので、その繊細な書きぶっりは、父親譲りではなく、もちろん、何も知らないが母親からのもののような気がする。もちろん、タングルウッドや軽井沢をしらない人には、彼女と家族と、それを取り巻く人々の情感あふれる関係の描写を、楽しく読んで頂くことも出来る。

 それにしても、なんと、あの夏の軽井沢、避暑地の軽井沢が懐かしく感じられることだろう。われわれにとってタングルウッドの、そして、軽井沢の「夏はおわらない」。

 

 

 

"失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章
サラリーマンの軽井沢

  結局、僕も就職することになり、ごく当たり前のサラリーマン生活がはじまった。夏休みのない夏はどんなに辛いだろうかと思っていたが、新入社員の緊張と、ほどよく冷房の利いた、丸の内のオフィスのせいで、それ程深刻になることもなく過ぎてしまった。それに、この年は東京オリンピックだった。直接は関係ないとしても、景気も良くだれもが高揚感に浸っていられた年だった。それでも、僕は軽井沢に来たくてしかたがなく、当時の半ドンの土曜日の午後、東京駅から上野発の信越線・急行「そよ風」だったかに飛び乗って軽井沢駅に着いた。3時過ぎにはなるのだが軽井沢駅からテニスコートに直行した。卒業していない仲間が皆、例年のようにテニスをし、しゃべり、笑いさざめいていた。5つ年下の弟は、これからが全盛だった。テニスコートで鰐淵晴子の妹で、やはり美人の朗子などと遊んでいたし、小石川の女医になろうとしている娘とはテニス以上のところまでいったようだった。なかなか、チャーミングな、しっかりした子で、弟に合いそうだった。僕は、そういう余裕がなかった。それは、学生と社会人の違いで、なにか関心が違ってしま共通の話題がなくなってしまった。土曜の午後と日曜の午前中だけの時間となると、何だが、気ぜわしく、彼女たちからの会話も「会社ってどう?」とか「東京はやっぱり暑い?」とか、あたりさわりのない、つまらないものになっていった。

 一方で、給料を貰う身になり、自分で使う自由なお金が出来た。それまで、アルバイトやなにかやっていたが、そこで貰うお金は最初から目的があった。だが、給料で貰うお金はお小遣いのようなもので、だいたい、見習いのようなことをやり、汗もかかず、お昼や夜にはわいわい同期入社の仲間などとオフィス近くのレストランや飲み屋に繰り出して、働く実感がわかなかった。アルバイトの時の働いた後の充実感、快い疲れもなく、貰ったお金の有難味もなかった。そんな時、神宮テニスクラブで同じ年の仲間達とつるんでいると、似たような、不完全燃焼の気分が広がった。そして、誰が言い出したのか、はっきりはしないが、たいていわれわれの遊びのリーダー格だった友達の発案だったと思う、軽井沢に貸別荘を共同で借りて遊ぼうという計画がもちあがった。これが、その後、僕も含めて4組の結婚の足がかりになった、今から思えば成果の多かった計画だった。来月にその話をしよう。

  

  

[TOPICS]

軽井沢ナショナルトラストの忘年会、ラフォーレ中軽井沢のコテイジを借りて盛大に行われました。1904年は10周年記念行事も行われ、それなりに成果のあった年でしたが、これから、どのような方向にもっていくのかが問題となるところです。一つには資金面の強化ということで、幾つかの提案がありました。軽井沢の市民活動の中で、町民、別荘民、軽井沢愛好客という三位一体の珍しくうまくいっている会で、たしかに、藤巻進副会長がいうように、非常に風通しの良い、この会で将来的にもいろいろなことが出来るのではないかと思います。

 

軽井沢の陶芸作家、依田久仁夫さん、長浜みつえさんの作品展が今年も東京・池袋の「明日館」で行われました。質の高い器やローソク立て等が並んでいました。このフランク・ロイド・ライトの設計した、旧自由学園校舎である「明日館」が依田さんや長浜さんの創られたものを展示するには、大変よい場所であるようです。左の写真でもライトらしい意匠のドアの前に置かれた、案内の額がきれいに合っています。

 

 

 

(04/12/25)


 2004年12月号

(今月号は大きい写真が多く、読者の方のパソコンの状況によっては、
開けるのに時間が掛かることがあり、ご迷惑をお掛けします。
また、今月は24日から東京に出るため23日にアップ
ことをお許し下さい。)

目次

 テレワークによるリゾートオフィスエコライフ講座(22)
       読む(12)       

 "失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(16)
輝く大学生の時代

 


相変わらず火山活動が活発です。毎日、噴煙が立ちのぼり、青空を灰色に覆い、
晴れても曇りの日のようになります。もう手前の林もすっかり葉が落ち、
来年の5月になるまで同じ景色になります。
小康状態で噴煙がかすかな朝の浅間
Erupting Volcano Asama still once or twice a week.

[スイスの青年、アンディ君に薪割りを頼む]

3年前に4か月わが家でホームステイして、一昨年の9月には仕事の帰りに寄ったウイーンで再会したスイス人の青年、アンドレアス・メッツラー君が台湾で始まるプロジェクトに参加する前にわれわれの所に2週間ほど滞在しました。さすがに山の国スイスの青年で華麗な薪割りの技術を披露してくれました。


左下、赤い自動薪割り機で歯が立たない丸太を斧で見事に割り、喜ぶアンディ君
Skilled woodcutter Andy, Andereas Metzler, from Switzerland, staying our house
for the first time since three years.

 


 
 

テレワークによるリゾートオフィスとエコライフ講座

 (22)

Resort Officeの効用
読む(12)

フランスの映画監督、エリック・ロメールはフランス映画ファンでなくても、大方のひとたちが知っているだろう。そして、彼の代表作の「春のソナタ」「夏物語」「恋の秋」「冬物語」は彼自身が書いた「四季物語」による映画である。4編とも会話中心のしゃれた映画となっていて、不思議に何度見ても飽きることがない。私が特に好きなのは「夏物語」で、夏のヴァカンスの季節に海辺のリゾートにふらりとやってくる男の子、数学の修士課程を終わって秋から企業の研究所で働く彼と、そこのレストランでアルバイトをしている民族学専攻で博士論文を書こうとしている彼女との出会いと別れの物語である。こんな物語は舞台を夏の軽井沢に変えても、これまで、どれ程あったか分からない。ただ、映画の彼等の方がもう少し知的でセンスがあるといえるだろうか。2人の会話のやりとりが面白くて、聞き取れないフランス語の原文が欲しくなった。そこで、パリにいた友達に買って送ってもらった。会話の部分だけコピーして持ち歩いて、文章を追っていくだけだが、結構、楽しい。男女の会話では、お互いに好きなのだが、それを言わないで、言外に限りなくにおわせながら、豊富に会話を続けること、これが最も楽しい時間の過ごし方である。そして、リゾートのヴァカンスこそ、この時間が取れる絶好の機会なのだ。まるでグライダーに乗って、出来るだけ長く空にいる、滞空時間が長いほどいい。あるときは上昇気流をうまくつかんで接近し、あるときは気流をつかみそこねて降下していって、2人の間が離れてしまう。しかし、また、上昇する。しかし、最後は着陸することになるので、この部分は、どちらにしても結末を迎えることになる。ところが、リゾートのヴァカンスは、このブルターニュでも、軽井沢でもそうだが、いつも、はっきりしない別れがやってきて、それが、パリや東京で続きがあるのか、あるいは、来年の夏に期待出来るのか、そんな余韻をもった別れがくる。結局、それっきりの別れの方がずっと多いのは当然なのだが、それでも、リゾート、夏の終わりの別れは想像力がかき立てられる。

ロメールの映画に常にある将来への含み、実は、映画では珍しいのだが、現実感覚がある。同じようにリゾートを背景にした「海辺のポーリーヌ」もそうだし、より微妙だから、現実的でもある「クレールの膝」という作品もある。

この本「四季の恋の物語」の中で「夏物語」にも負けない面白い話は中年の恋を描いた「恋の秋」である。二人の友達同士の女性と一人の男性の駆け引きが楽しく、物語は私の好きな軽妙な語り口で進行していく。これは主人公の一方がぶどう園の女主人で、先週行った玉村ぶどう園「ヴィラデスト」と背景などがダブルところもあって、より興味が深まる。

 

[ 玉さん(玉村豊男夫妻のぶどう園とカフェ)]   


      

    

             
            
私のモーツアルト協会会員番号K611のぶどうの(メルロー種)苗木   

 

 

"失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(16)
輝く大学生の時代
学生最後の夏

  
 
1963年、経済学部4年の夏、高等学院、文学部、経済学部と渡り歩いた早稲田の9年間が終わろうとしていた。私がいつも、早稲田の生活に高等学院を含めるのは、この当時、未だ高等学校というより、旧制の早稲田大学の予科という感じの教育が行われていて、教員の殆どが早稲田大学の教員で内容には哲学などが含まれていたからである。今から思えば、最も早稲田らしかったのが高等学院で、最も、早稲田らしくなかったのは経済学部だった。それは、主として学生の責任というより権力になびくサラリーマン化した教員の責任が大きかったと思う。

 もう、この夏、軽井沢に来て、テニスクラブに行ってみても、友達が来ていなかった。誰に聞いても「もう、彼も卒業したから、忙しくて来られないのよ」と年齢の割には、相変わらず派手な格好をした財界首脳の夫人達が説明してくれる。こうした女性と上手く社交してテニスを楽しむという域には達していなかった僕は、土日の週末に仕事を終えて戻ってくる仲間がいるとき以外、テニスウエアの上に、普通のズボンをはいてテニスはしないかのように振る舞った。「私、今、お相手がいないの、ちょっと打って、お願い」と言われるのを避けるためだった。7月末から8月の第1週は恒例の国際テニス・トーナメントで、この間だけは勤めている仲間も暑中休暇をとって参加するものも多かった。僕も、その間は毎日コートに行った。就職1年目の友達達は夏休みがない生活にがっくり来ていて、いろいろ実社会の話を聞かせてくれた。とにかく、勤務時間で拘束され、連休することは、殆ど不可能だった。大手企業でも土曜日は半日は働く時代だった。もう、銀行に就職は決まっていたが、失敗した、やはり大学の先生になっていればよかったという思いにさいなまれた。大分後になって、父が僕は大学院に行って、教職につくだろうと思っていたことを母から聞いた。その頃は大学院なら奨学金をもらっていくか、アルバイトを考えていたので、親に面倒を掛けるつもりはなかったが、親の方では、働き続ける必要があるかも知れないと覚悟を決めていたようだった。

 

 トーナメントも終わり、8月も末になるとテニスコートもがらんとしてくる。1960年代の軽井沢は本当に「避暑地」だった。8月の最終週になると、誰でも「今年はいつまでおられますか」「明日、お引き揚げ、あ〜ら、さびしくなるわねえ」とか、このクラブの観覧席で別れの挨拶が飛び交うようになる。8月31日ぎりぎりまで、軽井沢にいる人が羨ましがられるほど、皆、帰り支度をする。「別荘を閉める」という言葉にはそれこそ重い響きがあった。夏の間に使ったものを納戸や押入にしまい、あるものは本宅に持ち帰るために荷造りをしなければならなかった。戸締まりをし、来年の夏までを管理人に鍵を預けて頼む。秋の落ち葉はき、冬の水道の始末、夏の草刈りなど、管理人に頼むことも多い。その間に軽井沢に来ることがあっても、別荘を開けることなど出来ないので、その場合はホテルに泊まることが常識だった。もっともホテルさえ、冬は閉じられていた。

 9月まで軽井沢にいられるのは大学教授、学者と相場が決まったいた。テニスコートにも夏には見えないメンバーが出てくるようになる。その筆頭は羽仁五郎、羽仁節子だった。自由学園を創設した羽仁元子をついで、また、その自由思想は一世を風靡した。いわば大衆市民を鼓舞していた彼等がブルジョワの集まるテニスクラブにいるということは奇異に感じられるかもしれないが、自由思想を輸入出来るインテリ上流階級が大衆を啓蒙するという社会の名残だった。どういうわけか、現在の加藤周一に至るまで本当の意味での自由な精神の持ち主の系譜ではテニスをする者が多くいたのである。この羽仁夫妻や、やはりこの系譜の渋沢家のながれで哲学を研究していた青年などとテニスをした。秋の軽井沢の日は短く、午後も3時になれば長い日陰が出来て、テニスをするのには苦労した。それでも彼等の謦咳に接して、ある時を共に過ごしたことは貴重な思い出である。特に渋沢青年にはかわいがってもらい、かなり「自由」を教えられたように思う。お金と血統にめぐまれていながら、一人で好きな勉強をし、財界夫人達と違ってまったく、服装からなにまで、こだわりがなく淡々とした軽井沢生活をおくっていた。ただ、食事や身の回りのことは昔からいるお手伝いさんがお世話をしているという感じだった。僕たちがどんな会話をしていたか、その記憶がなくて残念だが、古典的な意味で責任ある自由を共有しようというものだったと思う。渋沢さんは私が大学卒業後もしばらく軽井沢で同じように過ごしていたが、私が社会人になって、会うことができなくなった。そして、現在はその頃から予定していた通り、どこかの大学で教えているらしい。

 

  

  

[TOPICS]

 江戸原ペンション・音楽ルーム オープン

待望の江戸原ペンション別館、正式名称は「江戸原クリエイティヴ・コンプレックス」が去る11月30日に近隣及び全国からお客さんを迎えてオープンセレモニーが行われました。写真はクラリネットの名手、田中正敏によるオープニング・コンサート。この後、ペンションの方に会場を移して、懇親パーティ、おいしいお料理もたくさん出ました。ここで私は松岡温彦・企画としてペンション。オーナーの江戸原光夫さんに協力して、大型スクリーンによるDVDの試写などをやり、葉山にある「Cadenza」の峰松啓さんの指導も受けようと考えています。

 

 

 

 

 (04/11/25)


 

2004年11月号

目次

 テレワークによるリゾートオフィスエコライフ講座(21)
       読む(11)       

 "失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(15)
輝く大学生の時代

 

 秋が深まる中で、先月、9月1日に中規模の噴火があってから、中旬までの噴火で火山灰に悩まされましたが、現在はご覧のように一見おだやかな浅間山です。


 
 

テレワークによるリゾートオフィスとエコライフ講座

 (21)

Resort Officeの効用
読む(11)

[須賀敦子]

 

 須賀敦子の名前に気が付いたのは吉武先生が「僕は須賀敦子の書いたものが大変気に入っている」と言われる少し前のような気がする。とすれば、「トリエステの坂道」の第1版を1998年に買った、その頃だろう。買ったまま読んでいなかったのは、女流の随筆に何となく、訳も分からない抵抗があるせいかも知れない。犬飼美智子や曾野綾子のそれが正論過ぎると思っているせいかも知れない。須賀敦子もその類かと思って、手にはとるのだが読まなかったのは、曾野綾子と同じ聖心女子大でということも手伝っていたのだろうか。吉武先生が亡くなって1年経った、今年の夏頃から、寝しなに読んでみようという気になった。

 読んでみると、まるで想像と違っていた。イタリアに留学して、イタリア人と結婚して、その夫に死に別れ、日本に帰ってきて日本の大学で教えて69才で1998年に亡くなった。彼女の書いたものはイタリアを舞台に書いているもが多いのだが、不思議にイタリアより彼女や彼女の周囲の人間がよりよく書かれている。外国に住んだり、外国に行ったりして書かれるものは、どうしても、その外国を読者に意識させようと意気込んで書かれる。日本との違いを感じさせようとする。そうではなく、須賀敦子は背景に佇む。

 彼女はローマで勉強していて、イタリアのかなり有名であった詩人の友達に誘われてミラノへ来て、そこで、ある特別な本屋をたまり場とする詩人の仲間と一緒になる。そのグループで本屋で働いていた一人と結婚することになる。当然、彼女はその仲間達や結婚相手の家族について書くのだが、実に丁寧な描写で心理のレベルを超えて精神のレベルに至る。

 更に驚かされるのは、その知的な世界である。「ユルスナールの靴」を読むとよくわかる。私が訳本で「ハドリアヌス帝の回想」を十分に読みこなせていない、フランスの女性の文豪ユルスナールである。同じイタリアに係わって皇帝を読み物にしている塩野七生ヲ考えると、須賀敦子はなんと慎ましやかな知性だろうか。今年の夏は彼女の作品をかなり読めたことが大きな収穫だった。

   

 

 

"失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(15)
輝く大学生の時代

  
 
1960年、文学部3年の夏から、1964年の経済学部4年の夏までの軽井沢の生活の舞台はこのテニスクラブだった。正式には(財)軽井沢会テニスクラブと称していた。千ヶ滝通りを家の辺りから車で5分も登れば、グリーンホテルがあり、その裏から千ヶ滝東区という別荘地帯になっていた。そこに、早稲田の1年後輩で東京の神宮クラブでも一緒にテニスをやっていた、大久保健君という人なつこい友達が滞在していた。彼は僕のような、戦後没落した家の子供ではなく、戦後も金持ちで、お父さんは大手のデパートかなにかの社長であった。そのせいで、当時は誰も持っていないような外車に乗っていた。それもヒルマンという、スマートな車だった。金持ちだが親切な彼は、毎朝、私の家に寄ってテニスクラブまで乗せていってくれた。そして、帰りも送ってくれた。今でも、テニスコートのベンチに座って昔を思い出すと、彼がいなかったら、このクラブに入り浸ったあの生活はなかったと思う。

 私が経済学部に移って4年生をやっていた年には彼が先に卒業していたから、この最後の一年は、私は一人バスに乗って、このコートに行っていたが、そうなると、週に2,3回になり、とても毎日というわけにはいかなくなった。毎日、行っていないと、「昨日は誰が来ていたよ」、「月曜日、来なかったじゃない、彼女、東京に帰ったわよ」などと言われて次第に疎んじられるようになるのだった。クラブにはテニスをするだけではなく、だれかれとなく会って、ちょっとおしゃべりをするメンバーや家族が出入りする。特にテニスをしている家族を夕飯前に迎えに来る、奥さんや小さい子供、孫を見に来る昔は華麗なテニスをした年輩のメンバーなどが現れる。そして、「今晩、うちに来ないブリッジでもしようよ」とか、「ジャズの良いレコード、東京から持ってきたんだ、夕ご飯の後、一緒に聴こう」また、「何もないけど、お肉のいいのがあるから、食べに来ない」などと声が掛かるのも、この夕方だ。バーベキューでよければ、毎日誰かの家でやるので、夏の間、居候して食いつないでいた学生もいた。丁度、8月の初めに行われる、このクラブのテニストーナメントの手伝いに来る大学庭球部の学生などは、それに便乗していた。それにしても、学生最後の年の僕はバスに乗って帰れる時間がせいぜい午後6時までだから、こうした楽しい生活は前の年で終わってしまった。

 夜、誘われて、誰かの別荘に集まるとたいていゲームをやる。たまに、ゲストなどがいるときがある。渥美清などがいたこともある。あの頃の夏の軽井沢には、いろいろ有名人も来たが、だれも特別扱いされない。渥美清は、それがいいので来たとか言っていたように思う。もちろん、皇太子や皇族にしても、軽井沢では仲間の一人として気楽に過ごせた。それは、軽井沢に来る人々の間に夏の間のつかの間の幻の生活を共有するという暗黙の了解があった時代だった。皇太子がやったかどうかは知らないが、われわれのなかでは一時「告白ゲーム」がはやったことがあった。静かな夜の別荘で、このゲームをやると、何か変な気持ちになる。やはり、誰が好きだとか言わされて、後で気まずくなることもあった。それでも、翌朝までは持ち越さない暗黙の了解があった。確かに、あの頃の別荘ライフには皆に共通のルールがあって、だれもがそれを良く守っていた。ひとつのコミュニティだったのだろう。

 

 

 

  

 強者共の夢の後、夏が去り、話し込んだり、お茶を飲んだりしたお隣の別荘も引き揚げて後には枯葉が舞っています。 

[TOPICS]

 軽井沢ナショナルトラスト10周年記念行事

 10月23日(土)軽井沢万平ホテルで軽井沢ナショナルトラスト10周年のシンポジュウム、ミニコンサート、昔の軽井沢の万平ホテルの料理を楽しむ懇親会が開かれました。100年前からの宣教師達の軽井沢を語り、200年に向けての軽井沢の未来を考えるというシンポジュウムでした。私は後半の未来を考える第2部の司会で、エコミュージアムの研究者として第一人者の横浜国立大学の大原一興先生、星野リゾートの星野佳路社長、エッセイイストの三善里沙子さんをパネラーに迎えて、軽井沢の問題点と将来への提言を語って貰いました。

 北一番、マデン別荘、本格調査

 同潤会アパートの保存など提唱し、あめりか屋建築の研究家として有名な文化女子大教授・内田青蔵先生による軽井沢別荘調査の2回目として、明治時代の建てられた、愛宕の「マデン別荘」の調査が行われました。近い内に、建て替えられる計画の同別荘の平面図が作られることになります。

 

 

                     

(04/10/25)


 

      

2004年10月号

目次

 テレワークによるリゾートオフィスエコライフ講座(20)
       読む(10)       

 "失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(14)
輝く大学生の時代

軽井沢の法則・副読本


    

遂に浅間山が噴火。中規模の噴火というが、20年振りの本格的な噴火。8月1日、午後8時2分、2日前からの予告もあり、ちょうど1階の浅間山側の戸締まりをしていた時に噴火のドカーンという音、空震があった。8月3日あたりから、火山灰が大量に降ってきて、左の写真のように木の葉は全部は灰まみれ。水をかけてもなかなか落ちない状況。外に出れば灰がまっているので、帽子をかぶって、マスクをかけて、やっと歩ける。

Volcano Mt. Asama erupted for the first time since 20 years. Leavs, roofs everywhere were covered by ashe. 

 


 
 

テレワークによるリゾートオフィスとエコライフ講座

 (20)

Resort Officeの効用
読む(10)

軽井沢での交友録

 浅間山が噴火して、火山灰があたり一面を灰色にしている中で、ちょっと油断して窓を開けていたらパソコンのキーボードがざらついているのに気が付いた。しまった、この灰がパソコンをダメにするかもしれない。この噴火の前に、加藤周一「高原好日」信濃毎日新聞社、2004年7月1日、1700円、を読んだ。噴火が続いて、毎日、灰がふるようなら、この本は読めない気がする。”浅間山麓交友録”など、のんびり読む感じが遠のくだろうから。この本に掲載されている、加藤周一が軽井沢というか、むしろ、彼の別荘のある追分で直接会って話した人物は60名近く。ほかに、架空の交友として、一茶、藤村、佐久間象山、巴御前がいるが、これは面白くない。彼の年齢から考えて、交遊した友達の多くが故人になっている。だから、思い出といってもいい。中野重治、片山敏彦、福永武彦、中村真一郎、朝吹登水子、辻邦生、池田満寿夫、武満徹など。大半の人の名前は知っている。軽井沢と言うところはかくも多くの知的逸材が跋扈していたところなのだということを改めて思い知らされる。日本で生き残っているわずかな選良として、加藤周一が友達をどうみているのか、またどの様に付き合っていたのか、よくわかる。

 私は非常に興味を持って読んでみたが、彼はこれほど抑制の利いた友達付き合いをしていたのか、これほど知的につきあっていたのか、あるいは、交遊を表現するのに、これしかないのか、いずれにしても、いささか違う。先年、彼が中村真一郎を追悼して1時間半ほど、しゃべったが、これはものすごく面白かった。しかし、彼はこれを文章にすることを拒否したらしい。そして、この本に書かれている中村真一郎についての話は、あのときの話と違って無味乾燥といってもいい。交遊を文章にするなら、人物論ではなくやはり、相手が自分とどの様な関係、好きか、嫌いか、相性のよしあしなどを言外にでも書かなければ、勝手な読者としては面白くない。フランスの著名な社会学者のレイモン・アロンの回想録を読むと、サルトルやマルローとの交遊関係が出てくる。アロンは2人との関係を良かったり、悪かったりするにしても、その事を率直に書いているので、面白い。2人の本当の交友関係は対談集を読んだ方がいい。

 

 

"失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(14)
輝く大学生の時代

 大学に入る頃には、千ヶ滝のうちの周囲の別荘に来る友達もライフスタイルが変わり、ほとんど会わなくなった。一番仲良くしていた2人のうち、一人は学習院に入って工学方面に進んで、実験が忙しいなどという理由だったし、もう一人は家庭教師との猛勉強のお陰で東大の原子力に入って、やはり勉強に精を出さなければならないようだった。うちでも私をかわいがってくれた祖母が亡くなり、叔母の家族が別荘を乗っ取り、僕は6畳一間を確保するのがやっとだった。叔母のつれ合いは大学教授で夏休みがあり、それに引き替え母の方は父が当時の農林省から鹿児島県庁に出向して、それに付いていったので、軽井沢に来ることなど出来なかった。昭和30年代は父親の単身赴任などはなく、母親は任地に行って、ご主人の世話をすることが優先で、子供だけが学校でどうしても東京に残る場合は、寮や下宿で頑張ることになっていた。僕の場合も一人で、早稲田の近くや荻窪の下宿を転々としていた。幸い、軽井沢では、祖母のお手伝いさんが、そのまま、叔母の家族の賄いをすべてやっていたので、僕の食事も作ってくれた。そうでなければ、叔母は軽井沢に僕を居させてくれなかっただろうし、その頃は外で食べるところもなく、自炊もさせて貰えなかっただろう。とにかく、別荘の中では窮屈な生活だった。それもあって、叔母の家族が来る前の7月20日前と彼等が東京に帰る8月一杯を過ぎてからのしばらくの間が天国で、友達を呼ぶことも出来た。自分だけのこの期間は自炊で、お鍋から食器類まで自分の名前を付けて自分の部屋にしまって置いたものを出して使った。何せ、プロパンガスもない時代で、七輪に火を起こして煮炊きをするのだから、今では考えられない技術が必要だった。もっとも、炊事、洗濯、掃除などは親の手伝いで覚える時代だったから別に大変だとも思わなかった。また、大学の合宿などで山に登る機会も多く、それも役にたった。しかし、軽井沢で避暑生活をする人達はまだまだ住み込みのお手伝いさんを連れて来るのが普通だった。どこの別荘に遊びに行っても、お手伝いさんがお茶や食事を出してくれた。自家用車をもっている人は少なく、余程、町近くに住んでいないと、ちょっとした買い物もかなり歩かなければならなかった。また、米、野菜、魚、肉など、かなりのものはご用聞きが来た。


以前「荻原商店」だった、荻原さんの家

 あの頃、パンはどうしたのかとか、朝食はどんなものを食べていたのか、定かに思い出さない。たしか、うちの別荘から歩いて5分も掛からない、ごく近くのバス停の横に「荻原商店」という店があり、そこに食パンだけは売っていて、シーズンには早く行かない売り切れるので、3斤、買いにいっていたような気がする。その店には、日用雑貨から、ちょっとしたおみやげ品まで売っていた。おかみさんがてきぱきした人で店はもっぱら彼女とご主人の親夫婦でやっていて、ご主人は小諸あたり近辺の小学校か中学校の先生で通勤していた。祖母が生きていた頃は、ごく親しくしていて、そのおかみさんとよく世間話もしていた。道を隔てたところには酒屋があって、そこでは新聞も売っていた。八百屋、肉屋、牛乳屋もあったが、今は「荻原商店」をはじめ、寂れた八百屋以外は全て店は消えた。あの元気のよかった、おかみさんも杖をついて歩いているのをたまに見かける、先生だったご主人は学校を定年で辞めてから、おかみさんが取り仕切っていた別荘管理の仕事をほそぼそとやっていたが、最近はそれもやめ、静かに暮らしているようだ。後から聞いたはなしだが、先生だったご主人は誰からも尊敬される先生で、貧しくて学校に来られない生徒のために、自分の月給をはたいていたという。これも、あのおかみさんの内助の功だったのかもしれない。

[TOPICS]

軽井沢ナショナルトラスト専門委員会      

軽井沢ナショナルトラストでは、軽井沢の建築遺産60選ということで、資料集を作っているが、最終段階で、建築の専門家に意見を聞くことにした。まず、全般を見てもらうことで、横浜国立大学の大原一興教授に来てもらって、コメントしてもらった。引き続き、ヴォーリズの専門家、大阪芸術大学の山形政昭先生やあめりか屋を調べている、文化女子大学の内田青蔵先生などにもお願いする。

Meeting of Karuizawa National Trust.

 

 

  

 

 

                     軽井沢の法則・副読本

 

三善里沙子さんのベストセラーだと思うが「軽井沢の法則」がマガジンハウスから出たのが1995年、それから、今年、「定本・軽井沢の法則」が軽井沢新聞社から出た。彼女は上品にやんわりと軽井沢にふさわしい人品骨柄、振る舞いについて書いているのだが、私は、やや、歯に衣を消せぬ軽井沢の法則を書いて、副読本を作ろうと思う。いろいろお気に障る向きもあるだろうが、軽井沢の将来のために敢えて書くので、他意はない。

『定本 P87』自転車

最近開発されたところは別だが、もとからある別荘地の中の舗装をしていない細い道に、ゆっくり散歩している人や、サイクリングを楽しみながら走っている自転車を蹴散らして走るのを、何とも思わないか、むしろ、歩行者や自転車が邪魔だと思うなら、もう、軽井沢に来ない方がいいだろう。軽井沢の中でも車がはいらないほうがいい場所はわずかだから、せめて、そのくらいはわかってほしい。
フランスのハイな雑誌に「ここは自転車でゆっくりまわって見ると、道ばたの小さな花や、木の実や、いろいろな発見がある、車で走ると、そうしたものを見過ごして、なんということもない」、ヨーロッパでは自転車は文化だ。
私は自転車の国、オランダは行ったことはないが、ストックホルム、コペンハーゲン、ウイーン、ドイツのエッセンなど、自転車を使うことが「格好いい、ファッショナブル」な町と人々をずいぶん見てきた。日本では、ママチャリとかいって、自転車に乗る人が確かにダサイ、でも、軽井沢ならファショナブルに乗りこなせる人もたくさんいるだろう。確かに「明治屋」や「紀ノ国屋」は自転車で買い物をするのに似合っていたが、「つるや」に自転車は似合わない。テニスクラブに自転車でいくのがいいが、ゴルフクラブは車がいい。近くの別荘のベランダでお茶を飲むのに自転車で立ち寄るのがいいが、成金の塀の高い別荘でディナーとなれば車が似合う。
 もちろん、三善里沙子さんが言うように、自転車はエコライフの象徴である。エコライフを推進する、ヨーロピアン・ライフスタイルには欠かせないものでもある。私が社会学者の立場からはコミュニティ・ライフの象徴でもある。自転車は人とコミュニケーションできるヒューマンスケールの乗り物だからである。1960年代、東京オリンピック前までは、軽井沢の夏にコミュニティ・ライフがあり、それが丁度、遠くても自転車で5分程度の範囲、2kmといった感じだった。コミュニティ・ライフとエコライフとは密接に関係がある。ゴミ処理や自然エネルギーの利用、美観の維持など、本来は、すべてコミュニティの人々の合意事項で成立する。ヨーロッパのエコビレッジがその典型的なものである。http://mannae.hp.infoseek.co.jp/新しい軽井沢のコミュニティのために、われわれ夫婦は今日も自転車に乗っている。

(04/09/25)


2004年9月号

目次

 テレワークによるリゾートオフィスエコライフ講座(19)
       読む(9)       

 "失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(13)
輝く大学生の時代



Clear view of Mt.Asama in summer. You can see she is active.

 

 


 
 

テレワークによるリゾートオフィスとエコライフ講座

 (19)

Resort Officeの効用
読む(9)
古典が読める余裕

 

軽井沢の夏は読書の季節である。都会では秋が読書の季節だが、軽井沢の夏の緑陰の読書、これこそ最高の楽しみなのである。今年もいろいろ読み散らかしたが、古典も古典、幸田露伴の「五重塔」を、それこそ50年ぶりに読んだ。何故、今更、古典回帰かとも言われるが、きっかけはこういうことである。「季刊・本とコンピュータ」という、あと1年で廃刊になるという雑誌に、人文書出版6社共同で作った《リキエスタ》の会(岩波書店、晶文社、筑摩書房、白水社、平凡社、みすず書房)が出した本が紹介されていた。過去の貴重な文献の一部をとりだして、100ページ前後にまとめた薄くて読みやすい本になっている。その中に、私が気にしている内田魯庵の「気まぐれ日記」、木村毅「明治文学余話」、柳田泉「明治文学研究夜話」があり、大変面白く読んだ。しかし、僕自身といえば、明治文学などほとんど読んでいないわけで、この「五重塔」にしても、今でいう、ひどい台風が来たのに、全くびくともしない五重塔を建てた名棟梁の話を読んだ記憶があるだけ。それも、もしかすると、子供向けに書き直されていたものかも知れない。当時、原文で読めたとも思えないからだ。

 そこで読みなおしてみると、われわれにとって、学ばなければならない重要な箇所がある。「人の仕事に宿生木になるも厭なら、我が仕事に宿生木を容るるも虫が嫌へば是非がない」、これは主人公の十兵衛が、親方筋に当たる源太が五重塔を共同で建てようと言う申し出を断る場面である。協力してやろうといわれても親分、子分の関係は崩せないから、結局、親方の下に入ってやらざるを得ない。それでは自分の仕事が出来ない。これぞ、われわれ仕事をする人間の基本であり、テレワークの本質でもある。サラリーマンは宿生木を当たり前のように考え、それに何のこだわりもなく、一生を終えていく。大方の人は名を残すこともなく、自己満足すら出来ずに消えていく。多くのサラリーマンが宿生木の宿命にささやかなりとも疑問をもつことが大切なのである。

 

 

"失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(13)
輝く大学生の時代

 前号で紹介した手紙の彼女とは、この夏、軽井沢で会った。彼女が近くのショッピング・センターまで出てくるというので、そこまで出かけていくと、彼女はピンクの靴を履いて、あごひものある白い帽子を被って、遊園地に遊びに来る子供のようだった。これは、少しショックだった。彼女にしてみれば女子学院の中学、高校時代に戻った幼心の気持ちで、懐かしい同級生達と過ごしていたから、それでよかったのだろう。だが、僕の心は引いていった。それからも手紙の交換は続いたが、冗談の応酬という感じだった。それはそれで面白かったが、先はなかった。その後、付き合った女性から「冗談が男女関係のを深入りさせない、距離を保つ手段ね、まるでボクシングのジャブのようだわ」と言われて別れた記憶がある。次か、その次の年になって、彼女は同じ同攻会の同級生の男の子と親しくなり、やがて結婚したという事を聞いた。それは風の便りと言うほどの印象しか残っていない。こうして、同攻会の女性と軽井沢の時代は終わった。

 その頃、うちの別荘から3軒先の別荘に来る一家も年代が変わって、就職したり、結婚したお姉さん達の後、妹や弟が大学に入って、僕とも付き合いがあった。たしか青学に行っていた妹がいて、背が高くてお姉さん達ほど美人ではなく、骨張っていた。彼女は男っぽい性格で、肩を組んだり、手をつないで歩いたりするのだが、全然、その気にならなかった。それでも、彼女達の別荘にはよく上がり込んで、いろいろ話したり、近くをあちこち散歩した。それはそれで楽しかったが、これも軽井沢の夏のヴァカンスの情景のように一時的に通り過ぎていくものだった。今でも、軽井沢の夏にいろとりどりの女性と話す機会があるが、実に現実感の無い会話をするという気がする。会話そのものがシャボン玉のように膨らんで消えていく。ここ、軽井沢で夏、話したことは、ほとんど記憶に残らない、次の年に同じ女性に会っても、まるで新しい女性に初めてあったような気がする。新鮮というのではない、違う人という感じだ。

 

(上の文章にある、よく上がって遊んだ別荘、今は人が代わり改築された。前は手前に、昔の千ヶ滝の別荘によくある広い縁側に障子の入った8畳の和室があり、開放的で、僕も友達もその縁側から飛び込んだ。玄関は反対側の千ヶ滝通りに面していたので、僕たちは玄関から入った記憶がない。)

 

 

やがて、僕の夏の軽井沢の舞台は家の周りから、少し離れた軽井沢の中心、旧軽井沢のテニス・クラブへと移っていく。現在の天皇が皇太子時代に正田美智子さんとロマンスの花を咲かせた因縁のテニス・クラブである。同じテニス・クラブでも僕は直接、美智子さんを知らなかったから、2人の写真を撮ったりしたのは、新婚の夏の昭和34年(1959)の事だと思う。後に美智子さんの弟とテニスをするようになって、皇太子夫妻の夏の逗留場所であったホテルのテニスコートで、護衛付き、女官接待によるテニスを楽しんだり、軽井沢の南が丘にあった彼の別荘で夕食をご馳走になったこともあった。しかし、これも昔の"よき時代"の軽井沢の一幕の物語に過ぎない。現在なら、このような自由な付き合いはあり得ないだろう。その事も、もう少し詳しく話していこう。

[TOPICS]

 軽井沢大賀ホール完成近し      

大賀ソニー前会長の16億円寄付で話題になった、大賀ホールが今年一杯の予定で完成、軽井沢町のものになります。8月10日に支配人に予定されている、元ソニーの大西さんと話をして、私の方からは、超現代音楽祭、カナダの演奏家を呼ぶことなどを要望しておきました。21日には町長とも話しましたが、いずれにしても、せっかくのホールがよい音楽で満たされるように願っています。

(Ohga Hall for music,800seats,including 150 standig bar will be constructed by the end of the year. The official open due to May next year.)

 

 

 ショー祭

 

恒例の「軽井沢ショー祭」が8月1日に開かれました。今年も去年と同様、カナダ大使館からは書記官の
レオ・ヨッフェさんが来られて、祝辞を述べられました。右の写真ように軽井沢駅にはショーの肖像写真で作った旗も並んでショー祭を盛り上げました。
     

(Karuizawa Shaw Festival, citizens of Karuizawa thanks to Father A.C. Shaw, founder of Karuizawa as a resort place. Mr. Yofee of Canadian Embassy of Japan gave a speech.)

 軽井沢高原文庫の会、高原文庫サロン

今年は堀辰雄生誕100年、軽井沢高原文庫の夏の会で黒井千次氏が講演、同じく高原文庫サロンでは堀辰雄夫人(91才)が堀辰雄の思い出をインタビューで話されました。堀辰雄が軽井沢の文学者に与えた影響は非常に大きく、詩人で建築家だった立原道造からはじまって、中村真一郎、福永武彦、加藤周一といった人達は、少なくとも軽井沢を舞台にした世界では弟子に当たるといっても過言ではないでしょう。そういう意味では黒井千次はその後の世代に属しているので、堀辰雄の影響を受けていると自分で行っていても、間接的なものであることは致し方ないところです。

(Novelist Kuroi Senji gave a lecture about Late Mr.Hori Tatsuo, novelist and poet, his 100 year's birthday.)

軽井沢、本当のそば

 

軽井沢にはそばを食べさせる店はたくさんあって、ガイドブックや雑誌など一般に喧伝されているところですが、地元の人に教えられている、外の人は行かないおいしい店もあり、私は教えられていますが、人には言えません。そして、もっと素晴らしいのは、上の写真ように、地元の特別な友達が、そのまた友達の農家の作るそば粉と、そのまた友達が特別に製粉してくれるものを、「今日、そば打つから食べに来ない」と自宅で作って呼んでくれるのが最高の最高なのです。(Real Soba, made by my special friends of Karuizawa. They inveited me their own Soba lunch, the best of the best.)

(04/08/25)


2004年8月号

目次

 テレワークによるリゾートオフィスエコライフ講座(18)
       読む(8)       

 "失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(12)
輝く大学生の時代



Usually,we can see Mt.Asama byond the forest,
but summer air hide the moutain.

 

 


 
 

テレワークによるリゾートオフィスとエコライフ講座

 (18)

Resort Officeの効用
読む(8)
常にデータベースとして

本を読んでいると、今まで知らなかった面白い事実にぶつかることがよくある。

今年5月、ちくま学芸文庫で再刊された「今和次郎 その考現学」川添登を読むと、面白い人間関係が出てくる。キーワードは4つである。

(1)今和次郎:早稲田大学・建築科教授、家屋、地域、風俗の観察法として考現学を創設 

(2)尾崎秀美:ゾルゲ事件で死刑になった朝日新聞上海特派員

(3)秀美の妻:死刑を控えた秀美が獄中から妻に書いた手紙は「愛情はふる星の如く」  というベストセラーを生む 

(4)新宿・紀伊国屋書店・考現学展・昭和2年10月、尾崎秀美が朝日の記者として展覧会評を書いた

この展覧会の後、今和次郎はインド洋周りで欧米視察に出掛ける。

「その途中すでに特派員として赴任していた尾崎に上海の港で出迎えられて彼のアパートをたずねると、和次郎を待っていた尾崎の新妻は、考現学展の係をしていた紀伊国屋の元女店員だった。

  このように本を人間関係のデータベースとして読むと、想像力をかき立てられる。

Kon Wajirou, Professor of Wasda Universitey on early 20century,fouder of "Modernologio" met a reporter of Asahi Shinbun, HIdemi Ozaki who was excuted as spy suspect with Zorge, German Spy.

 

 

"失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(12)
輝く大学生の時代

前回、安保の年のことを話したが、その年の夏、やはり早稲田大学音楽同攻会の後輩の女性と軽井沢・東京間の文通があった。彼女の文章は自由奔放で実に面白かった。いま考えても、かなり親密に文通していたが、特に何もなく、これも、たいていの男女の関係はその夏限りという「軽井沢の夏」現象で終わった。もう、あれから44年経っているから時効で、彼女も許してくれるだろうから、その手紙をそのまま載せることにしよう。当時の雰囲気が実に良く伝わってくる。


1960 summer letters form a junior girl sudent of Waseda Uni. Mucic Lovers' Society

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こんにちわ!ものすごい東京の暑さに対し、軽井沢でのんびり一人暮らしなんてずいぶん図々しいと思うわ。東京は湿度が高くて、夜でさえもじっとりと汗ばんでしまいます。
 キャンプ以来勿論お元気でしょ?トンコ嬢(注:自分のことをトンコと呼んでいた)は少々この所グロッキー気味でまだボサーッとしています。ネズミとカイチュウ電灯のテンプラ、おいしかった?夏ですもの、あまりもたいないと思いますから、なるべくはやく胃の中にしまってね。
 今日、エリーゼ(注:早稲田大学の近くにあり、音楽同攻会の愛用した喫茶店)で反省会がありました。バテていましたので出席しないつもりでしたのにゴリ親分(注:当時の同攻会の幹事長、あだ名で呼ばれていた)から出て来いョといわれ、炎天下を出かけて来ました。二十人位来たかな。 その結果 例の文集は女子会員で作ることに決定したのよ。だから、どうぞご協力下さい。原稿の〆切り日は第一回七月末日(八月には非ず。よくおぼえといてよ。)です。絶対絶対絶対忘れないで。もし忘れたらトンコさんの前で三回まわってワンか、彼女に何かおみやげをかってくること。これは冗談としてもとにかく忘れないでね。早すぎるョですって?軽井沢からどなってもきこえません。私宛にお送り下さい。お願いします。
 毎日何しているの?勉強なんて全然してないでしょう。すごくうらやましいな。私ね八月に入ったら、大抵十日以降になると思いますが軽井沢へ行くのよ。J・Gの寮で(注:彼女は高校が女子学院だった)クラス会があるの。卒業以来一回もクラス会に行ったことなかったのに、なんとなく行ってみる気になりました。久しぶりにJ・G girlになって軽井沢を清浄かしようと思っています。(注:女子学院はミッション・スクール)関西旅行はお友達が大腸カタルになって危うくなるし、今は一途に勉強にいそしむつもりです。(みならってよ)
 それから質問。軽井沢に何か郷土芸能の如きものはありますか。JG出のお友達で早大にいる親友の一人がやっぱり大学の宿題でどこかの郷土芸能を実際土地へ行って調べるようにいわれたそうで、八月のクラス会で軽井沢へ行ったついでにそこでやってみたいと目下さがしているの。別に軽井沢だけでなくともその辺一帯の昔からの風習的なものでおもしろそうなのがあったらおしえて下さい。
 戸隠のハエ共(注:同攻会の合宿は戸隠でのキャンプだった、その時の仲間のこと)は松岡・沢本コンツエルン(注:トンコの本名は沢本朋子だった)特製のお料理とてもおいしかったと感激してました。でもものすごい金バエだけは、コーンチャウダーの辛さは今尚水を飲まずにはいられない程だってケチをつけていたわよ。相棒が居たらのしちゃう所なのに、残念ながらトンコは口をもぐもぐさせて口惜しがっただけでした。でも、大部分のハエ共は我等の腕のよさを認めてくれました。
 まず原稿のことと、郷土芸能のこと お願いします。軽井沢ボケしないでいくらか知性と教養はのこしておいてね。 たしかに考えれば考えるほど、九月中頃までいるなんて生意気で図々しいと思います。
 でも仕方がないね。もしかしたら八月中頃、会いたくもない顔(互いに、よ)にバッタリ軽井沢の町中で会っちゃうかもしれないな。
 くれぐれもお元気で。粗食はよろしいけれど、栄養はとってね。ネズミや電気ではVITAMINや脂肪が少し足りないと思うの。あまり遊ばないで。原稿は和歌及び俳句は大歓迎です。トンちゃんの気に入らないこと書いたらボイコットやカットするわよ。
 暑中御見舞い私も出すから、出して。なるべく絵葉書でね。ではお体(これはふんでもけっても死なないと思うの)と頭をお大切に。    ごきげんよう
                                            とんこ
     七月十二日 よる
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[TOPICS]

 12年振りにイタリアの友達が来日      

12年前も江戸原ペンションで夕食を食べたことがありましたが、江戸原さんは覚えていませんでした。その時、彼女は日本語を学ぶ学生でした。軽井沢でホームステイの何日かを過ごしてもらいました。今、イタリア北部、アルプスの麓、ワインと自動車製造の町として知られている、トリノ市で自動車デザインでは世界屈指のピン・ファリナに勤めています。今回もMMCの研修で岡崎に来たところ、週末に軽井沢に来てくれたというわけです。もう結婚してご主人は心臓外科のお医者さんでフランスの病院で働いているそうで、2人は週末夫婦だそうです。トリノは次期冬季オリンピック開催地ですから、今は活況を呈しているようです。

(Enza Diliberto, our friend from Torino, Italy, visited us for the first time since 1992.)

 江戸原音楽ホール完成間近                     

設計の山本さん夫婦も江戸原ペンションに滞在して、最後の仕上げに余念がありません。道路際で外からの音を遮蔽する必要や、近隣に建物が多く、コンクリートで固めなければなりませんでしたが、景観にマッチしたきれいな建物になっていると思います。おりしも、軽井沢大賀ホールも使用料が決定され、音楽の町、軽井沢というイメージも広がってくるという楽しみがあります。1960年代にジャズや現代音楽のメッカになった軽井沢がどの様な形で蘇るか期待が膨らみます。

(Edohara Pension Annex, will be open soon. It's mainly for people who play and make music.)

 

自転車騒動と発地地蔵

車を使わないわれわれは軽井沢でも自転車を愛用しています。しかし、山の上の千ヶ滝から町までは帰りが急坂になることもあって、そこはバスかタクシーを利用し、自転車は中軽井沢の駅の駐輪場に置いて、仕事関係の打ち合わせから買い物まで走り回ることになります。ところが、6月の終わりから7月の終わりに掛けて北海道、九州などに出掛ける用事があり、軽井沢に1ヶ月近く戻れませんでした。その間に駐輪場から自転車が消えました。放置自転車として回収されたのです。ショックから立ち直り軽井沢町役場に問い合わせたところ、建設課の益田さんが親切にも「町の倉庫に保管してありますよ、一緒に行って見てみますか」と言ってくれました。町の倉庫は南側の風越にあり、驚いたことに、100台以上の自転車が整然と並んで置いてありました。幸い、われわれの自転車は2台とも無事に保管されていました。倉庫から自転車で軽井沢タリアセンに向かう途中に「発地地蔵」がありました。これは町の文化財になっています。ここは「女街道」が通っているところで、女性の旅が厳しく制限されていた当時、女性の旅の安全を祈る大切なお地蔵さんでした。
(Road side stone Buddhas, kept watch passerby.)

(04/07/25)


2004年7月号

目次

 テレワークによるリゾートオフィスエコライフ講座(17)
       読む(7)       

 "失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(11)
輝く大学生の時代


Mt. Asama and・・・・

夏を迎える軽井沢です。浅間山の周りの雲も勢いがついてきます。

 

 


 
 

テレワークによるリゾートオフィスとエコライフ講座

 (17)

Resort Officeの効用
読む(7)

晴れた日、午前中に6時間確保 

 先月、紹介した吉武泰水先生は軽井沢に山荘をもっておられました。午前中に伺うと、先生は外のパラソルの下で本を読んでおられるのが普通でした。30年前に比べれば、5度近く温度が上がっていて、さわやかな冷風が、一日中吹き渡るようなことはなくなりましたが、それでも午前中は快適です。

 先生が1998年頃、新首相官邸の建築で仕事をされていて、当時の総理府の官房長にも提唱されていた、日本の時間を1時間早める問題がありました。サマータイムではなく、年間通じて1時間早めるのです。これによって日本に活気が出るというのが先生のお考えでした。確かに、東西に長い日本では特に西側に住む人達にとっては「日中」をロスしていることが大きいはずです。先生は九州芸術工科大学の学長時代に、そのことを思いつかれたようです。私たち東の住人にとっても夏になると、朝,暑くなって寝ていられない日が多くなります。

 先生は自分でそう思ったら自分で始める方でしたから、軽井沢では特に朝を有効に使われていたのです。仮に朝食の時間を1時間とったとしても午前中で6時間確保できます。本を読むとすると相当な量を読むことができます。午前中に自分の満足がいくほど、はかどると、午後は何をしても、その日を無駄にしたという後悔をしなくて済みます。これは非常に気分のいいものです。人によりますが、私の場合、普通の本であれば200ページ以上、専門書でメモなどとって100ページ、英語は辞書をひきひき50ページという感じでしょうか。ある程度、自分で納得するガイドラインがあると思います。もちろん、読書も原稿を書くためや、調べものをするための場合は別の目処がいるのです。


from coffee shop of Saison Museum of Modern Art, we can read and write here

 雨の日、曇りの日は違った状態になります。私は雨の日が好きなのは読書を含めて落ち着いてデスクワークができるからです。体質的には「晴耕雨読」になっているからでしょう。いずれにしても、今は5時に起きるというのが正解だと思います。

 

 

"失われた時を求めて-軽井沢・千ヶ滝へ"
  第3章(11)
輝く大学生の時代

 昭和33年4月から、34年、35年、36年、37年3月までというのが、僕の文学部に在学していた時代で、35年が西暦1960年で、60年安保ということになる。もちろん、60年安保は僕にとっても心に残る事件で、書くことは山のようにあるのだが、ここは、軽井沢の話なのでふれないことにしておこう。それに、この年に軽井沢にやって来た7月頃には6月15日〜18日に頂点に達した歴史的な安保闘争はかすかな余韻と共に消え去っていた。デモの主役であった学生達も夏休みを迎えて故郷に三々五々散って行き、大隈銅像前から講堂にかけての広場に人影もまばらになっていった。この年の軽井沢では音楽同攻会の1年下の女性との文通が唯一、やや華やいだ話しなのだが、先ず、その前年、昭和34年の夏のことについて書くことにする。1月1日のキューバ革命で始まった34年、国内では、春の皇太子の成婚、現天皇と美智子さんで、テレビが売れ、「マイカー」と言われるようになり、好景気への予感がしていた。大学生活に興奮した1年間の後、ようやく学生生活のペースもつかめた感じがした。それにしても、僕が注目していた2人の女性は3年生となり、部室に来る回数も減っていた。やはり、卒業後の進路を決める必要も出てきて忙しくなったこともあっただろうが、今から思えば、肝心の彼女たちのお目当ての先輩が卒業してしまったことが、部室に現れなくなった最大の原因だった。部室に来ない彼女たちを追いかけるのもせいぜい、図書館ぐらいだったが、それも、深追いするようなことはなかった。残念ながら新入部員に惹かれるような女性も入って来なかったが、2年生になって少し視野が広がったこともあった。早稲田大学交響楽団や劇研、素描座などの劇団にも女性がいることがわかったし、文学でも、自分の学科以外の世界に目が向くようになった。 だからといって、特別なガールフレンドが出来たわけではない。


昭和34年、結婚した皇太子(現天皇)ご夫妻はこのコートでテニスを楽しんだ

この年の夏に軽井沢では、同攻会の何人かを呼んで楽しく過ごした。しかし、男性ばかりだったことは確かで、細かいことは覚えていない。僕の関心事はもっぱらテニスになった。軽井沢町の古い中心部にあるテニスクラブは、うちのある千ヶ滝からは10キロ近くあり、当時、バスに乗って30分はかかるところだった。たまたま東京のクラブで一緒にテニスをやっていた友達が軽井沢にも家があり、それも家の近くだった。彼は金持ちらしく、当時、アメリカのスチュードベーカーというスマートな車に乗っていた。親切な彼は毎日、僕をその車に乗せてテニスクラブへ連れていってくれ、帰りも送ってくれた。朝の10時頃から夕方の5時頃まで、とにかく、クラブにいた。まだ、軽井沢に別荘を持っている人達は名の知られた人達と外国人で、テニスで遊んでいるのはその人達の子弟だった。このテニスクラブをやっている「軽井沢会」は日本人は元皇族や華族、実業家、作家、学者、医者、建築家、政治家、高級官僚が会員で、外国人の会員は、宣教師、外交官、貿易商、ジャーナリスト、英語教師などだった。彼らは有名人同士、家族ぐるみの付き合いがあり、子供同士も友達になっていた。子供たちは小学生から大学生まで昼間はテニス、夜はお互いの別荘で夜遅くまでカードやなにかで遊んでいた。週末の夕方には大人たちも東京から戻ってきてテニスをした。ときには皇太子殿下夫妻(現天皇)もやってきて、テニスをしていた。ファッショナブルな白いテニスウエアを着た夫人達が現れるとテニスコートは一段と華やかさを増した。

残念ながら僕たち千ヶ滝から来るグループは彼らと24時間一緒に過ごす近所づきあいが出来ないことや、親が著名人でないこともあって、彼らとテニスをしたり、お茶を飲みに行くことはあったが、それ以上、親密にはなれなかった。クラブに入るためには紹介者2名がいる時代だったし、僕たちが入れてもらえたのが不思議だった。誰が紹介者になってくれたのか、思い出すことが出来ない。学生だったからいいようなもので、そうでなければ「場違い」になるところだった。昭和34年はまだ、日本にも階級社会が残っていたのだ。そういえば、このクラブに登録されていた人達は未だ旧制高校出身者で、ほんの一握りの"上流階級"で、お互いが皆知り合いというのも当然だった。第一、テニスなどというスポーツもミッチーブームで普及する有様で、その時代、誰でも楽しむほどにはなっていなかった。

毎朝、10過ぎに友達の車に乗ると、テニスコートに行く道路に乗用車などほとんどなく、すれ違う車といえばたいていトラックかバスだった。どこにでも駐車が可能で、クラブのメンバーで車で来る人達は田舎者だった。歩いてくるか、自転車というのがステータスだった。美智子さんの実家の別荘も、国道を隔てた南側にあり、徒歩や自転車はやや無理だった。つまり、彼女の実家も軽井沢コミュニティの中では最上流というわけではなかった。「粉屋の娘」と言って一段低く見る人達がたくさんいた。

 

[TOPICS]

      

ベランダほぼ完成

今月に入って、梅雨も中休みということで工事は進んで、塗装の一部を残してほぼ完成しました。スタイルは同じですが、細かいところはかなり違います。また、上の写真のようにリフトを取り付けました。これで1階のベランダへお茶やケーキをおろし、下から薪を上げることが出来るはずです。未だ使って試して見ていないので、果たして実際にうまく使えるかどうか、わかりません。皆さん、遊びに来たときにチェックして下さい。これで、この夏から安心してベランダに出て頂くことが出来ます。また、下のベランダの一部に屋根をつけましたので、雨の日も外気を堪能しつつ、お茶を楽しむことが出来ます。


[TOPICS] 江戸原音楽ハウス、工事進捗状況

5月の終わりに見たときは土台のコンクリートが見えていただけでしたが、もう、屋根が上がっていました。音楽作りに必要なマックのG5(パソコンでマックを使っている人には、あこがれの最上級機種)やミキサーなどがすでに到着していて、建物の出来上がりを待つばかりです。果たして、どのようなことが出来るのか。江戸原ペンションをとりまく音楽関係者が手ぐすねを引いていることでしょう。

 

      


今月もまた1件、2件と会社の山荘が消えていきます。

(04/06/25)

     


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