MOVIE SOLILOQUY

 

1999.09.06 (MON.)

 

 

観たのはもう10 日以上前かな。だからアホな私は細かい ことは既に髄分と忘れてしまった。ただ私には久々のタイプでヒットだったと記憶してます。監督はだって 「キングダム」のラース・フォン・トリアー。「キングダム」程ではないが、やっぱり画面はそこはかとなく 黄色い。 ところで先週は数日間のバカンス、プーケット&半日だけのバンコク旅行へ行った。 素敵な場所だった。帰りたくなかった。今すぐまた行きたい。本当に今すぐ行きたい。

ただ、ちょっとまた反動やいろいろなことがあって鬱に入りつつあるので、、、例えば現状で言うならば、 昨夜眠ろうとして目を閉じた途端に「果たして本当の愛とは何か」などと頭の中から声がして泣いてしまう ような状態ね。だから敢えてその旅行の話はもう少しとっておきます。

さて、「奇跡の海」。まず冒頭がイカス。舞台はスコットランド(だったような気がする)。教会が すべてを牛耳っているような海沿いの古い町。長老がベスに聞くには「よそ者がもたらす真に価値のあるものは 何か。」あまりにイカスので書き留めてしまったからこれは正しい筈。ベスの答えは「音楽です。」

よそ者とはヤン。無垢なベスとたくましげなヤンが結婚。ベスのお義姉ちゃんは心から心配するが、 ふたりは幸せ。けれど不幸は無垢なベスが無垢なばかりにヤンを愛しすぎ、無垢な愛し方しかできなかった ことから始まったのではないだろうか。杖に寄る犬のように、ひとつの愛だけですべてが満杯になり他のものの 入る余地を持てなくなるような無垢さ。ベスは神と対話し、他人と対話できない無垢さ故に自己と対話している。 ああ、久しぶりにまじめな文章・・・

物語はいくつかに別れており、その度にエルトン・ジョンかデヴィッド・ボウイの曲が流れます。

その愛が無垢だから美しいのか、正しいのかは観る人によって違うだろうなあ。私は、、、よくわかる、と 思った。間違っていないと思った。でもそんな風じゃいかん、とわかっている。わかっているけどそういう風に しか愛せないのが間違っていない、と逆に弁解したくなった。私は無垢な訳ではないので、そのような献身、 そのような愛の表現はないけれども、そのようなのめり込み方はよくわかってしまった。正しい訳じゃない。 正しくはないがそうせざるを得ないような愛し方。

ベスの愛が純愛ならば、ヤンの愛も純愛だったろう。お義姉ちゃんの心配もよそに正しく純愛だった。 お義姉ちゃんの愛も本当で、ベスの愛が頑なだとすればベスを気遣いもうやめて、と願うお義姉ちゃんの 慈愛(そう、この場合は「慈愛」なんだな)も頑なだった。

教会なり、ベスの中の神にしろ、鐘にしろ、神とは何ぞや、と問い掛ける。偶然昨夜の話とつながるが、 果たして本当の愛とは何ぞや、と問い掛ける、そんな映画ですね。

最終章の曲がエルトン・ジョンでなく、デヴィッド・ボウイだったことに心から感謝(?)した。

ちなみにあの危険な船のおじさん(おにいさん?)はフレデリック(「キングダム」第三章・第四章) だよね。