MURMUR

 

2000.05.24 (WED.)

 

感性は衰えるものなのか

 

またまた一ヶ月のブランクを経て、近頃では自分でもここの存在を忘れておるあこぎな生活。 仕事から帰るのは早くて9時半だし帰ったところでくつろいだり物思いに耽る気にもなかなかなれない。。。 わずかなヒマは呑んでしまうし・・・

近頃特に驚いたことは、「イヤだ。行っちゃ・・・」と泣いたことだ。そんな気持ちに驚いて我ながら 感動した。 誕生日に電話をくれてバーベキューしてくれたのはひとり、初マニキュアを塗ってくれて リムーバーとか色々セットにしてプレゼントしてくれた人がひとり、ファービー・ベイビーをくれたのがひとり。 いや、十分に幸せでした。

それとは関係ないのだが今日は M*Y*K* ちゃんが自宅で受信可能なTV番組を 録画してくれたビデオをいただきました。清志郎が 30 周年記念だからと組まれた番組という ことで。そういや先日すずちゃんが録ってくれた「 RESPECT 」と同様かと思っていたのだが、 全然違った。これが感慨深くて泣けるんですなぁ。「 RESPECT 」のチャボも当時のファンには複雑かつ 感動ものでしょうが、これも泣ける。かつてミュートマとか MTV JAPAN とか夜更かしして見ていた時代を思い出し 感慨この上なし。自分でどこかにビデオ持ってるプロモーションもあり、知らなかったゼのシーンもあり。

しかしやはり感慨深いのは、もちろんのことながら自分の青春時代と重なるものだったりする。 今が既に「青春」と関係ないとは思わないが DAVID BOWIE 然り、清志郎しかりなこの変化というのは たぶん私自身にも大いに及んでいるような気がして哀しい気持ちになるのだ。。。

清志郎が三宅と組んで随分時が過ぎた頃、この田舎町でも県庁所在地へ出向けば清志郎に会えるという 機会があった。描く曲が変わり、スタイルが変わり、実のところ三宅は生理的にイヤなのだけど 丁度「これがRCだったなら」と思わざるを得ない状況だったかもしれないその時に LIVE に行ってしまった訳だ。 そしていないチャボを呼ぶ我々。。。 ・・・とは言え今でも「清志郎がRCだったなら」という気持ちは そのままで、「RESPECT 」においてもあんなに雄弁なチャボを 観たのは初めてながら最後の色々訳のわからない人々が集っている場面では既にチャボは姿を消している という現象から、何ひとつ事情を知る由もないまでも清志郎はチャボに捨てられてしまった、 という印象を持ってしまう私。。。

感性が衰えるというのは大変失礼な言い方であり、実際には衰えている訳ではないけれども若い頃は つらかったことも今では妻や子のためにたえねばならない別の境地へと達したのかもしれないが、 それでも敢えて言うならばあの頃ひどく哀しく聴いていた曲が、今はただの「名曲」と言われてしまう 今現在“あの頃はよかった”などと自分自身へ囁いてしまう自分がわびしい。

当然のように抱いていた哀しい気持ちが、当然故に哀しいなどといちいち思わないように変化していくことは イヤだ。哀しい気持ちがなつかしくて哀しい出来事を探したりするプロモーションも寂しい。 でも、では何が今本当の気持ちなのかと言えばとうにわからなくなっているのかも。。。 もちろん嘘をついている訳ではないし、哀しいときには本当に真実哀しいことには違いないけど。

認めたくはないけれど、感性はある意味では衰えるものかもしれない。。。